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だらしなさ、いい加減さは若者だけ。同じことでも年寄りになると見苦しいだけ

朝の通勤時間に寝グセのまま通学している学生を見かけました。

最近はおしゃれな若者が多いですし、丸出しで見えやすいところで目立ってたから気づいたのだと思います。

かくいう僕自身が普段あまり身だしなみに気をつかっていないので人のことは言えないのですが、よく見てみるとシャツがズボンからはみ出てたり、靴ひもが左右で違う結び方になっていたりして、微妙にだらしない若者がちらほらいることがわかりました。

成長するにつれ注意が行き届くようになっていく

もちろん、気づいていないだけだとは思います。まさか自分がそんなことになっているなんて思ってもみないでしょう。自分が学生だったときも、わざとだらしなくしようとはまったく思っていませんでした。でもいま振り返るとだらしなかった。どうして気づかないでいられたんだろう、なんて思ったりします。

いま自分ではある程度ちゃんとできていると思ってますが、ひょっとして自分の思い込みかも、なんて想像するとぞっとします。だれがどう見ても学生ではない、いい年をしたおっさんなので、「だらしない」という言葉はすでにあてはまりません。

街で実際にだらしない様子のいい大人を見かけたとき、少しも微笑ましさを感じません。むしろ穢れのようなものを感じてあまりまともに見ていてはいけないような気さえしてしまいます。

若者に対しては「まったくだらしないなー」ぐらいですむところが、なぜいい大人になると「目を合わせてはいけない」レベルになってしまうのか?

成熟しているのにきちんと注意を払えない状態は病的

毎日生きていれば当然、新陳代謝しています。髪も爪も伸びますし、目くそ鼻くそ当たり前、垢もフケもでますし、いけないニオイもしてきます。

手入れを何もしなければ天然ドレッドヘアになるなど、それはそれは大変なことになってしまいます。

ちいさな子どもは自分で手入れなんてできっこないので、まわりにいる大人がそういう面倒をみます。そういうもんだとおもっているので、べつにそれをおかしなことだとは思っていません。だらしない様子の子どもを見かけてもその子がだらしないのではなくまわりの大人がだらしないんだな、と思います。

「自分で自分のケツがふける」というのは絶妙な比喩

やがて自分の面倒を自分でみられるようになって、「大人」になるわけです。

なので大人は基本的にきちんとしているのです。大人できちんとできてない人は、ふつう病気です。ネコとかもそうですよね?

だから街を歩いているときなどにきちんとできていない大人に出くわすと穢れのようなものを感じるのです。いろいろ正常に機能してないんだろうな、と思います。

そしてその一瞬の思いはそのまま続き、その人がそんな普通でない状態になってしまったのはその人の責任なのか、それともほかになにか気の毒な事情があるのだろうか、という思いがチラッとよぎり、痛々しいような気分になりますが、だからといって自分に何ができるということもないので、絶望的というか無力感というかそんな気分に包み込まれ、最終的には「自分のことは自分で面倒をみるよりしようがない」というところに1秒くらいで落着します。

「ケ」の日をしっかりつとめて生活のバランスをとっていないと「ケ」が涸れる、つまりケガレてしまうんだな、うまいこというもんだと納得しました。(ハレとケとケガレ

だから自立していない子どもの寝グセをみても本人にケガレは感じないのです。これがもし保護者も一緒だったりしたら、きっとその保護者に穢れを感じただろうと思います。

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Author

naoan

始めるのに遅すぎることはない、とすごい人たちがみんな口をそろえていうので、まにうけて人生たのしもうともいます!