成果をあげつつ成長する方法は無駄に考えないこと
子どもは無駄に考えずにストレートに行動する、これが大人の視点で子どもの進歩を見たときに猛スピードに感じられる理由だということがわかりました。
お腹がすいたときとにかく何か食べようとするように、思い立ったその瞬間にその場でいきなりコンプリートしようとしないと、僕のような愚かな大人はいつまでたっても何もできないでしょう。
なぜ余計なことを考えてしまうのか
ただ行動すれば前にすすめるのになぜ行動する前に考え込んでしまうのか。これは、ハイリスク・ハイリターンよりも、波風をたたせないように慎重にいきることをよしとするしつけ、また、そういう育ちかたをした人で構成される社会の雰囲気もあるでしょう。
初めてのことに取り組むときは、自分なりに調べたり考えたりして少しでも様子をつかめたと思ってから実際に取り組み始める、というのがぼくのいつものパターンです。そして実際に始めてみると、それまでに使った時間がほとんど意味のないものだったことに気づいて愕然とする、というのもありがちなパターンです。
結局ほとんどぶっつけと変わらないのです。今までの時間は何だったんだ、またやってしまったか、と思ってイヤな気分になりますが、なぜか何度もやってしまいます。
子どものころはなにも考えず、思った瞬間、思ったまんま行動していましたし、それで特に不都合を感じたことはありませんでした。不都合になるようなことは何もしていなかったということかもしれません。
ただ自分のやったことのせいでイライラすることはよくありました。なにしろ思うのと行動するのが同時なので、思い通りの成り行きにならないこともそれなりに多く、そんな様子を見たとき母は
「もうちょっと後先のこと考えなさい」
といってたものです。そういえば当時はこのセリフを聞くたびに、またやってしまったか、と思ってたような気がします。
成果をあげながら成長する方法
進歩のスピードという観点で考えてみると、思考と行動に区別のない子どものほうが当然進歩する機会をたくさん持っています。つねにやりたいことに一直線ですから、ほとんどいつでもPDCAを回しているようなものです。子どもがどんどん成長する秘密は無駄に考えるということができないことにあったというわけです。
やってみれば簡単にわかることを、やる前にあれこれ考えない
なぜか先にいろいろ想定してうまくいかない原因になりそうなものをつぶしておこうしてしまいがちですが、未体験ゾーンに踏み込もうというときにそれをつぶしきれたことがありますか?
結局つぶしきれることなんかないわけですから考えるだけ無駄、とにかくすぐにやってみて体験済みの馴染み深い世界にしてしまって自由にできる範囲を広げていく作戦です。
見当違いをなくせば進化が加速する
やってみてはじめてわかることがあります。むしろやってみないとわからないことだらけ。
やってみないとわからないはずのことを無理に考えてみようとするから見当違いのことばかりに時間をついやすことになってしまうのです。
とりあえずやってみる。すぐになにかがわかって進むべき方向が見えてくる。すかさずそちらにむかってみる。するとまた違ったものが見えてきて的確な観点が得られる。
ただ動いてみるだけでも随分違ってきますよ。
無駄に考えずにまずやってみる
どんなに優秀な人を集めて知恵をしぼっても、宇宙がどうなっているかはわかりません。地震の予知もできないですし、もっと身近なことでいえば、工場で生産される製品から完全に不良品をなくすことさえいまだにできていません。
ぼくなんかがない頭をしぼるくらいなら、まずやってみて謙虚に現実を知ったほうが目の前にパズルのピースがそろって良い知恵も浮かびやすくなるってもんです。
まずやってみることで何がどう変わるのか
無駄に考えないことで事実だけをもとにすることができるようになるので、自分の思い込みに振り回されことがなくなります。
すると余計なことを考えなくてすむようになり、必要なことだけにフォーカスして行動できるようになります。
こうしてどんどん進んでいくと見えるものが変わってきます。まるで今まで持っていなかった世界のパズルのピースがどんどん増えていっているかのようです。
(2018-10-02 追記:関連する内容を『結局一番効率がいいのは準備なしにいきなりやってみること。しかもそうすることがオリジナリティを生み出す』に書きました)
そして世界のパズルのピースはつねに欠けている
これまでぼくは数枚のピースから世界の全体像を想像しようとするようなバカを繰り返してきました。人間の持てるピースの枚数には限界があると思うので、これからもバカな妄想を繰り広げてしまうでしょう。
ピースが増えて世界の景色が変わっても、それで本当に世界の姿に近づくことができていているのかどうかは誰にもわかりません。そこにあるのは個人の心の真実だけです。そんなのは、はたから見ればファンタジーです。
そうとはいっても、こんなこと考えてしまうのは自分だけなのではないだろうか、と思っていたことをほかの人も同じように考えていたことがわかったときの「自分ひとりだけではなかった」感、「自分は病的なわけではないんだ」感、「自分は間違っていなかった」感などがあったときはとても助かりましたし、この感覚は生きるうえで大きな楽しみでもあります。
というわけで増えたピースや、見えた景色、心の動きなどを、妄想と区別することなく、ぼくの日ごろのファンタジーとしてシェアしていこうと思います。