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文章の勢いと才能について、または名作を書くということ

ぼくは昔から人に「何を言っているのかよくわからない」と言われつづけてきたので、なるべくわかりやすく話さなければいけないと人生の途中から気をつけるようにしてきました。

しかし、始めるのが遅かった。

いまではちょっとしたことを言うときでも会話のキャッチボールがうまくいかない、というか言葉を吟味しようとしすぎて言葉に詰まっているともう言い終わっていると勘違いした相手がはなし始めてしまうことがしょっちゅうです。

プレゼンのときに、散々リハしたにもかかわらず、なぜか言葉の吟味時間が訪れてしまって「放送事故かと思った」と言われたこともあります。

これでも小さいころは「口から生まれてきたんじゃないか」と言われてたんですけれど。

そんなぼくでもたまには弁舌さわやかになる瞬間があります。どうも普段意識して気をつけているものごとがなくなっているときのようです。人にどう思われるかも気にならない様子です。

だからといって適当にまくしたててひとり悦に入るということではなく、むしろそういうときのほうが「今日はやけに冴えてるね」と言われます。いわゆる「ゾーン」というやつでしょうか。

小学生のときなぜか夢中になって作文が書けたあの時間

小学校で作文を書かされた時間に似たようなことがありました。先生の書き始めなさいという指示に教室のみんながいっせいに原稿用紙に向かって書き始めます。おしゃべりする人など誰もいなくて、教室には鉛筆が机に当たる音だけが響きわたる。ぼくはどう書こうかと思いあぐねてなかなか書き始めることができず、でもみんなはどんどん書き進めているようなので、気ばかり焦ってしまってよけいに何をかけばいいのかわからなくなっていきました。

決められた時間がみるみる少なくなっていき残り時間もわずかになってしまったころ、このままでは名前しか書かれていない原稿用紙を出すことになってしまうと気づいたぼくは、なんでもいいからとにかく最低枚数だけ書ければそれでいいやと開き直って、書きやすいことから書き始めてみました。

すると、何を書けばいいかわからずにずっと苦しんでいたのが嘘のように、書けば書くほどあとからあとからどんどん書くべきことがわいてくるのです。それを追いかけるのに夢中になっていたら、あっという間に最低枚数の倍以上書いていました。

そうしてこの作文は、漢字の間違いは多いし「てにをは」もおかしかったりするけど目の付けどころがおもしろい、ということでアラを直したあとでみんなの前で読み上げられました。

文章の構造を意識すると手が動かなくなる

文章術の本とかいくつか読んでみたりしました。そのとおりできれば確かにわかりやすい、意味のよく通じる文章ができあがるだろうと思いました。ところが実際にやってみるとこれが実に難しい。

いままで考えてもみなかったことをやっているので難しいのは当たり前かもしれませんが、書いているときに書くこと以外のことを意識しようとすると、書きたかったことがどこかにいってしまいます。書きたいことが属している世界にいたと思っていたのが、さっきまでいた世界とそっくりだけど違う世界、書きたかったことがすでに失われている世界になっていることに突然気づくような感じです。

どうも書いているさいちゅうに自由に広がる妄想を行き当たりばったりに書いていき、妄想はさらにはてしなく広がっていきとりとめがつかなくなる、そんな進めかたしかしたことがないようです。そういうとき手は止まらないし、書いていて楽しい。書いているそばからどんどんわきあがってくるイメージというか連想をなるべくつかまえて書き残したいけど、手のほうが追いつかない感じになります。

書けなくなるまでノンストップで書いたほうが良さそう

途中で流れを止めるとそこから先もいろいろあったつもりなのが急に色褪せたような感じになってしまうので、まずはとにかく一気に書いてしまったほうがおもしろいものになりそうです。

直観的につながっているものだと自分では感じたけど、はたから見ればつながりがないように思えるものとかがおもしろいものになります。そしてそのそれぞれのどこがどうつながるのか、そのつながりを明らかにするところまでなんとか書ききっておきます。

一度流れを止めてしまった文章は、ちょっと間をあけただけでも別人が書いたもののようになり、最初の流れは永久に失われるわけですが、そんな現象もうまく利用できれば、文章が重層的になり、より深みのある作品にすることができます。つまり、なんとか書ききったままのものを他人が読めるものにするのは、最初に文を書き出した自分とは違うまた別の自分に任せるのです。作家の自分と編集の自分にわけてみる感じです。というか片方の自分を敢えて一時的に殺すことで、ブレーキをかけながらアクセルを踏むようなことにならないようにするという感じのほうが近いかも。

どちらの自分のときでもそのときの自分ができるだけのことしかやらないから、やりやすいです。現に今これを書いているこの瞬間は正しい日本語で文章をかけているかどうか気にしていません。ほんとの作家でも主述のねじれとかザラにあるとききますが、それは余計なことを考えずに一気にガーッと書いている時間がある証拠です。

文章は書くときだけでなく読むときも勢いが必要

そういえば文章の読み方について語っていた人の言葉に、清水幾多郎さんだったと思いますが、文章は勢いよく読まないといけない、なぜなら書いている人間の思考の流れと同調しないと、本当には内容を理解できないからだ、いきなり精読していたら肝心なところを読み落としてしまう、というような内容のものがありました。

これってつまり論文みたいな固いものでも熱くなって初めて入れる境地があって、そこからくる情熱をもとに書き進めることが他にはない価値を生み出す秘密だ、ということですよね。

村上春樹さんも大江健三郎さんもとにかく一度最後まで書いて、そしてそれを何度でも直すことだっていっています。良いものが書けるかどうかは結局才能によるし、それは書いてみないとわからないともいってました。

そういう超一流の大作家でない人が文章術を語る場合は、誰でも書くことができるはずだといっているパターンしかみたことがありません。プロットの作り方とか、ただしい日本語を使って書くための注意点とかの、いわゆる How To ものになります。

この違いは、部数を出さないといけない実用書だから書くことを勧めているということと、大作家の意見として言っているだけなので特に書くことを勧めようとは思っていないということとの違いだったんですね。

才能とはなにか

清水さん、村上さん、大江さんが言っていること、それはつまり、どれだけの熱量をのせることができるかが才能、といってるのではないでしょうか。そうだとすればその人がどれだけ熱くなれるかということが才能の大きさをはかる試金石になります。

ということはものすごく熱くなってないといけないですね。文字に載せられるのはその熱さのほんの一部だけですし、伝える方法が当のその文字だけによっているのですから。

熱くなって書き進めてとにかく最後まで一気呵成に書ききって、あとからそれを冷静な目で見直す。すると自分のつもりと違うできになっている。だから書き直したくなる。書き直したくなるということはあなたはもうすでに作家です、と大江健三郎さんが書いていました。そういうことなんだ。

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Author

naoan

始めるのに遅すぎることはない、とすごい人たちがみんな口をそろえていうので、まにうけて人生たのしもうともいます!