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画期的な発想をする方法は自分のアタマで考えること。それは学ぶことをやめることで引き起こされた気づきの共有

イチローは「遠回りはない。全部必要なことだから」といいました。

何かみんなが助かるようなものすごいことをした人はみな、とどのつまりは自分の頭で考えています。

何かの判断をするときに自分の頭で考える、というレベルの「考える」ではなく、それまで誰も想像しなかったようなことを独力で発想する、というレベルの「考える」です。

みなさんも何か素晴らしい発想をしたときのことを思いだせば、それが個人的な真実からくる個人的な体験であることがわかると思います。

しかもその個人的な発想がなぜかほかのみんなにとってもいい世界を呼び寄せる不思議。

そんな画期的な発想もシンプルな実践で生まれやすくなります。

無知の知が知的好奇心を生みだす

画期的な発想をした当人は「考える」というよりも「見つける」という感触をもつことが多いようです。

たとえばニュートンはこのことを「もし私がさらに遠くを見ることができたとするならば、それは巨人たちの肩の上に乗ったからです」と表現しています。

ひとたびそれが現実の世界に共有されると、もちろんそれまでも実はこの世界に真実として存在していたにもかかわらず、共有以後はまるで世界が変わってしまったかのような変化を起こすことになります。

こうなると、もう共有以前の世界のことを考えられなくなり、共有以前のことがわからなくなります。

これは共有されたものをとおして世界を見るようになるからで、人間は世界をありのままにとらえられない宿命のもとに生まれているということです。

そもそもありのままに世界をとらえることができない、これを前提にすることを「無知の知」といいます。

無知の知を前提にすると、所詮人間なんてたかが知れてる、取るに足らないちっぽけで無力な存在だ、なんて気分になるかと思いきや、なかなかどおしてこれが人生のロマンを生み出します。

もうほとんどのことを知り尽くしてしまって新らしい世界はほとんど残ってない、というのがとんだ思い上がりで、実はほとんど何もわかっていなかったんだ、という瞬間が人生には何度もあります。

これはちょっとした挫折ですが、この挫折に遭遇すると人間はムクムクと探求心が湧いてきます。

たとえば宇宙なんて知れば知るほど知らないということを知る歴史でした。

「ダークマター」や「ダークエネルギー」という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、これらはいまだに観測されたことはありません(だから「ダーク(暗黒)○○」といいます)。

計算によると人類が観測できる宇宙は宇宙全体のたった4.9%だけだということが判明し、それ以外の95.1%はなにしろ観測手段がないのですべて「ダークマター」「ダークエネルギー」ということになったわけです。

宇宙には知らない部分があるわけですが、ぼくらが日常を生きているこの世界もまぎれもない宇宙の一部なわけで、宇宙に存在している真実はこの世界にいながらにしてわかるはずです。

ギリシャ時代に離れた2地点の影の角度の差から地球の大きさを計算した人がいましたが、その計算結果は現在の観測精度からみても驚きの正しさでした。

現代では宇宙が全体として膨張していっていることがわかっていて、遠くの天体ほど速く遠ざかっているのが観測されており、観測できる宇宙の外縁の外側では光速を超えて膨張しているとされています。

かたやミクロの世界でも人間の想像をはるかに超える精妙な仕組みがいろいろとわかってきています。

量子論では観察者によって振る舞いが変わってしまうほどの極小の対象を観測しますが、その振る舞いは宇宙の創成に関係しています。

生物は変化しようとする意志が遺伝子のスイッチを操作し、分子レベルのプロセスを経て種の進化を引き起こしていることがわかってきました。

どちらの仕組みもほんのわずかな違いを生み出すだけなのに、宇宙全体、生命全体にまでその影響がひろがり想像をこえる結果にたどり着くところが不思議です。

このあたりの不思議感をわかりやすいカタチで表現してくれたのは何といっても手塚治虫でしょう。

火の鳥で描かれているこんな場面をぼくはきっと一生忘れることができません。

宇宙を飛び出してみたら、実は宇宙全体でひとつの素粒子を構成していて、そのままどんどん外に飛び出してつづけてみると素粒子が原子になり分子になり細胞になり生物になりその生物をとりまく別の宇宙になってしまいます。

逆にこんどは自分の今いる世界をどんどんミクロの方向に分け入ってみると、素粒子の内側には広大な別の宇宙が広がっていて、そこには銀河があり、太陽系があり惑星があり生物があり細胞があり分子があり原子があり素粒子がありまた別の宇宙にたどり着いてしまいます。

この入れ子モデルに初めてふれたときはアタマがクラクラしました。

画期的な発想とイメージとしての世界のとらえ方

こういうイメージはどこからくるのでしょうか。世界各地に存在する洪水伝説のようなもので、人類全員がもっているような気がします。

音楽や数学もそういうもともと持っているものだから言葉を超えてイメージが共有できるに違いありません。

偉大な発見をした人たちも、そういう人間がもともと持ってるオカルト1的な部分を抑圧せず、むしろすでに明らかとされているところとオカルト的な部分にすすんで関連をつけていっているようなフシがあります。

発見したものは発見される前はオカルトだった、少なくともオカルトと区別できないものだったから、発見者ももちろん区別していません。

というかオカルトと言われて顔が曇るような常識人は人の後ろを歩くことしかできません。

自然な好奇心を抑圧する「しつけ」を経由することで、社会に混乱を引き起こす心配のない使い勝手のいい優秀な下僕を製造する機能が教育なわけですから、教育を受けたたいていの人が「オカルト」と「画期的な発想」を一緒にしたときに顔が曇るのも無理はありません。

教育やしつけで画期的な発見や発想がもたらされることはない

人間の可能性を最大限に発揮するには余計な型なんてないほうがいいことは過去の偉人たちの足跡で立証されています。

ニュートンもラマヌジャンも、最近ではジェイコブ・バーネット君もそうです。

ジェイコブ・バーネット君は1998年生まれの若者なので、まだ偉人たちほど知られてはいないと思いますが、in Deepさんの『「学ぶのをやめて考えなさい」 - 人間自身の無限の能力を語るジェイコブ・バーネット師 TED講演 全語録』という記事をご覧になれば感触がわかると思います。

この講演でジェイコブ・バーネット君はニュートンについても少し触れてくれています。

In Deep (旧): 「学ぶのをやめて考えなさい」 - 人間自身の無限の能力を語るジェイコブ・バーネット師 TED講演 全語録

ほんとに同じ人間ですかと聞きたくなるラマヌジャンも、『無限の天才 新装版 ―夭逝の数学者・ラマヌジャン』という伝記によればやはり独力で道を切り開いている期間がありました。

ちょっと長いですが雰囲気がよくわかる部分を抜粋します。

 少なくとも1904年から1909年までの5年間、ラマヌジャンの悪戦苦闘は続いた。退学し、学位も勤め口もなく、他の数学者との接触もなかった。

 では、この5年間は無意味だったのだろうか? それとも、何らかの意味があったのか?

 19世紀の偉大な数学者、ヤコービは、E・T・ベルが『数学の天才たち』で述べているように、「数学者のひよっこに泳げるか溺れるかを独力で学ばせるためには凍てつく水へ放り込むのがいい」と信じていた。「多くの学生は他人のやったことを全部習得しないと自力で新しいことを試みようとはしない。自主研究のコツを体得する学生がほとんどいないのはそのためだ」。

 ラマヌジャンはひとりで何年も凍てつく水に漬かっていた。この艱難辛苦と知的な鎖国状態が彼のためになっただろうか。その自主独立の精神を鼓舞し、才能を磨かせたのだろうか。当時インドにいた人は誰もそんな風に考えなかったが、”凍てつく水”の効果はあったのである。大学生活の挫折によって、彼は、人の踏みならした道を進むしかない社会的拘束衣を着せられることなく、誰も踏み入ったことのない処女地を歩かされたからだ。

 まる5年間、ラマヌジャンはひとり数学研究に明け暮れた。導いてくれる人もなく、励ましてくれる人もなく、家庭教師として稼ぐわずかな日銭を除けば、お金もなかった。しかし、経済的な苦境にあっても、家族は彼を落胆させはしなかった――ともかくも、彼に干渉しなかった。インドには、賢者、神秘家、托鉢僧に対するのと同じように、彼のような孤高の天才を許容する余地があったと言ってよかろう。彼の友人、母親、そして父親でさえ彼を大目にみてあげて、決して仕事をみつけろとか自活せよと無理強いしなかったのである。事実、ラマヌジャンの過去について語るとき、ネヴィルは「1909年以前の呑気な暮らし」という言い方をしたものだ。これはある程度正しかった。その当時が彼の生涯のうち最も生産的な時代だったとも言えるからだ。ラマヌジャンは数学世界のなかに、その快適さゆえに立去ることなど思いもよらない安住の地をみつけていた。そこでは、知的に、審美的に、感情的に満たされていたのである。

出典: ロバート・カニーゲル (著), 田中靖夫 (翻訳) 『無限の天才 新装版 ―夭逝の数学者・ラマヌジャン

人類全体に新しい道を示すほどの着想を得ることは、どうも教育には荷が勝ちすぎているようです。

自分で考えることは自分で気づくこと

実はほんとうに画期的な発見は常に素人がしています。未発見のものはまだこの世のものではないので、それに関する知識も専門家もまったく存在しないからです。

もちろんラマヌジャンも前人未到の世界に足を踏み入れているので、そこでは全人類が素人です。

素人というものは、自分が心からしたいと欲することを、必要に迫られてではなく、まあ、美や真理の追求のためにするのである。

出典: ロバート・カニーゲル (著), 田中靖夫 (翻訳) 『無限の天才 新装版 ―夭逝の数学者・ラマヌジャン

気づけばぼくは必要に迫られてやっていることのほうが多いです。

真の着想は常識と妄想の区別がつくところにはやってくることはありません。

作品にしても行動にしても発言にしても、とにかく人間のすることなら何にしてもそれに先立って着想はすでに存在しています。

しかもそれはどこからどうやってやってくるのかわかりません。

この件についてぼくたちにできることは、学ぶことではなく、気づくことだけです。

この「気づくこと」こそが自分で考えるということです。


  1. 現在は、「荒唐無稽で到底現実にはあり得ない噴飯物の珍説」といったような意味合いで使われる場面が多い言葉ですが、本来の意味は「隠されたもの」で、誰でも察知できるものではないけど確かに存在していて誰かに発見される機会を待っている貴重な知識・法則とかも含まれます。 ↩︎

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naoan

始めるのに遅すぎることはない、とすごい人たちがみんな口をそろえていうので、まにうけて人生たのしもうともいます!