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ゾーン、三昧境に入ることが、進化、生命のバトンリレーを引き起こす

人間が本来の力を最高に発揮するのは、歯を食いしばって頑張っているときではなく、むしろ状況そのものを味わいながら自然に集中できているときだといいます。

自分のポテンシャルを発揮しやすい状態というのは確かにあります。能力の差よりも能力を発揮できる状態になるうまさのほうがパフォーマンスに直結します。

集中できている状態と平常状態の違い

最近ブログを書き始めたばかりなのでまだまだなんとなくなんですが、イメージとか言葉が浮かびでてくるときは、いつもの自分とちょっと違った浮かびでてきやすい状態になっていて、その状態にうまく入れないとやる気があってもそれほど書き進められない、という感じがしています。

何かを考えることができているときのモードが体感的にわかってきたのかもしれません。書くことが楽しいといってる人とかはこの感覚のことを楽しいといっていると思われます。

自分としてもこれは確かに普通の感覚とは違っていると思います。まだそんなに体感できているわけではないのですが今の自分の感覚では楽器の練習に没頭しているときが一番近いです。

集中しているときは普段と別の世界にいる

誰かに話しかけられたりして集中が壊れるとこの状態は簡単に失われます。でも誰かと話していたらやけに親密な感じがしてきた、なんてときも似た感覚なので、行動によって醸成された世界とは異なる世界のものが紛れ込んでくるとその世界がこわれる、ということですね。

まわりからみてもそんな状態にあることはなんとなくわかります。迫力が伝わるというか、世界に入りこんでいる勢いが見えるような気がして邪魔しちゃいけないと思ってしまいます。

吉川英治さんの宮本武蔵にもそんな状態のことが書いてありました──武術に優れていることで有名なお寺のほうにいったとき、たまたま近くで農作業をしている老人に、挨拶しようと思ったけど野良仕事への没頭がすごくてはたからみている武蔵にもその老人の三昧の境地がつたわり簡単に話しかけられずにいたその瞬間、すさまじい殺気がその老人から発せられてめちゃめちゃ驚いて思わず飛びのいたけど、当の老人は変わらない様子で作業を続けていた──といった内容だったように思います。

宮本武蔵の話はひょっとすると達人になれるようなひとは達人の境地をキャッチできるセンスを持っているということなのではないでしょうか。

意図的に集中モードに入る

あるモードに入ったときに自分がどんな風になるのか、どんなことをしたときにそのモードに突入しているのかがわかれば、同じことをすることで意識的にそのモードに入ることができます。

オーラを見ることができる友達に見方を教えてもらったことがあります。最初はなんとなく見えるような気がするまで少し時間がかかりましたが、一度感覚をつかむことができれば次からはすっと同じ状態に入れます。

それからしばらくたったころ近所の禅寺で毎朝開催されている坐禅会に参加してみたときに、座りかたを最初に教わるところで、座っているときの目線を教わったとおりにしてみたら、オーラをみるときと同じ目になってビックリしました。そんな坐禅も何度か参加したあとは自宅で座ってもほとんど同じような感覚になれるようになりました。

おそらく瞑想、お茶の作法、宗教的な儀式といったものは人間を普段とは違う世界に連れていくための知恵です。イチロー選手や五郎丸選手のルーティン、就眠儀式といったものもそうです。

他者が集中モードかどうかはわかりやすいし伝わりやすい

からだの仕組みとしてもともと人間がもっている能力っぽいけど直接目に見えるものではない。だけどその状態に入っているかどうかははたから見てもよくわかります。

作品から伝わってくる何かというのは作者のそうした三昧境の感覚が伝わってくるということが大きいです。先に三昧の境地があって、この世のかたちを借りてその境地が受け取り手に伝わり、受け取りがわでは作者の達した境地がミラーニューロンのはたらきで自分のこととして再現される。

こうして人間の営みが連綿と受け継がれてきて今があるわけです。

文化と文明の違い

受け継がれるバトンの意味を理解している人のあいだでないとうまく受け渡せないものが「文化」で、意味がわからなくても受け渡しできるのが「文明」です。

現代は機械文明としてやってきた数百年の結果としてあるので、いろいろなことが形骸化しているのも当たり前です。基本的人権という考え方が発明されなければならなかったのがその証拠ですが、この概念でさえ自分のこととして考えないひとが増えれば増えるほど形骸化していくわけです。

文明偏重の弊害です。意味より評価にフォーカスするので自分を失うことになります。もっと文化を大切にしたほうがいい。社会を変えていく大きなうねりはいつだって個人の思いに根ざしたものだし理解と想像力にもとづいています。

ここまで書いてきて今急に思ったのですが、社会を変えるどころでは収まらないほどの、もっと突き抜けた想像力を何世代にも渡って持ちつづけたら、その想像力は先日昆虫展で感じた進化する意志と関係するかもしれません。

#昆虫 #進化 #想像 #意志 #飛躍

進化の限界は生命のもつ想像力なのか

国立科学博物館の特別展「昆虫」にいってきました。地球上の生物でもっとも進化が進んでいるのは昆虫だといわれています。進化は適者生存の結果だと学校で説明されたような気がしますが、昆虫たちのようすは、こういう風になりたいという意思がないと絶対にそうはならなそうな姿なり形なりをしていて、適者生存だとどうもしっくりこないのです。そういう意思を持つということは進化したあとのイメージを進化する前にすでに持っている必要があると思うのです。

世界を自分のこととして感じると無意味で無関係なものは一切ない、そんな基本的なことをどうして忘れてしまうのでしょうか。

子どものように自分の感覚で世界を見る

子どものほうがすぐれています。みんな当たり前に世界と一体です。せっかく全能で生まれているのにまわりが勝手に制限してポテンシャルを潰しています。大人は自分のポテンシャルを自分で潰しているのが普通なので世界が見えなくなるのです。

自分のポテンシャルを引き出している状態が三昧です。三昧になればなるほどもっと深く三昧になれるようになりますし、自分の限界が拡張されます。こどもはつねに三昧です。

みんなもともと知りたがりです。評価が知りたいのではなく意味が知りたいのです。芸術は意味というものがあることを思い出させてくれます。三昧を転移するパワーがあるからです。パワースポットのパワーもおなじパワーです。なので触れても自分が変わらないものはアートでもパワースポットでもなんでもないということです。

自分の感覚に鈍感にならないことが大切だと思います。

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#茶道

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昔はお茶というのは単にお作法とかそういうもののことだとイメージとしていたんですがそれは勘違いでした。もっとずっと精神的な世界でした。スマナサーラ長老が本当の心を育てるのにおすすめといっているヴィパッサナー瞑想に近いかもしれません。そしてお師匠さんたちの立ち居振る舞いや、お茶の作法にのっとっていない日常の所作からしても、そういう姿勢で世界に相対しているんだということがわかりました。

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naoan

始めるのに遅すぎることはない、とすごい人たちがみんな口をそろえていうので、まにうけて人生たのしもうともいます!