何かを達成するとき試練と葛藤と水平思考があると達成の規模が大きくなる
大成功は大試練のおかげで大きくなった人へのボーナスだということがわかりました。
大成功にはそれに見合うだけの人間の器が必要です。そして試練が生来の器を大きくする働きをするのです。つまりほんとに「ピンチはチャンス」だったのです。
何かをしようとするとき多かれ少なかれ必ず試練がある
何かを成し遂げたひとは必ず試練を乗り越えてます。というか何かを進めようとすると途中で壁が立ちはだかることになっているそうです。
ビジネス本なんかを見てみても、やりたいことが大きければ大きいほど壁も巨大になっていく、とたいてい書いてあります。
何かを成し遂げるということは何もしなければ波風立たないところにあえて変化を起こしにかかるわけです。変化を待ち望んでる人からすれば英雄の登場になリますが、世界がこのままずっと続けばいいと思ってる人からすれば、なに余計なことしてくれちゃってんの? となるのは当然です。
想定外の現実という壁がたちふさがることもあります。伝記などではこれがあったおかげで予想をこえる結果になって思いもよらない大成功につながったりします。
なぜかならず試練があるのでしょうか。
あとから振り返ったとき試練だったとわかる
試練はあとから振り返ってみないとそれが試練だったということがわかりません。試練の真っただなかにいるとき本人にわかるのは、思い通りにならない状況だということだけです。
これまでのやり方ではもうこれ以上うまく進んでいかなそうに思えるとき、それを環境のせいにしてもなんにも変わりません。環境のせいにする人は自分に問題があるかもしれないとは思わないので、そうなるともうできることは愚痴をいうことだけになってしまいます。文句を言うだけで行動に変化がない人は結局は受身なのです。
何かのせいにするのではなく、どうすればいいのかということを想像できる人は、環境は簡単に変えられるものではないことがすぐわかるので、やり方を変えてみようと思います。
しかしやり方はそもそも環境に依存しているものなので、それを変えようとなると二者択一になったり二律背反になったりしてしまいます。どちらも大事にしたいと考えていたらこれはすごい葛藤を引き起こしてしまいます。
どちらも選べないままでいると行き着く先は愚痴マンになりますし、どちらかを選んでしまえばそれは何かを捨てていることになります。どちらにしても大きな目でみると選択しているだけなので、乗り越えたというのはちょっと違います。本質は諦めに近い。
では試練を乗り越えるというのはどういうことなのでしょうか。
試練を乗り越えるということ
簡単にいえば、「一挙両得」とか、「一石二鳥」とか、「三方良し」とか、「Win-Win」とかが近いです。
二者択一や二律背反になって行き詰まってしまう状況を逆にチャンスに変えてしまうような発想ができたとき試練を乗り越えることができるわけです。
例えば薩長同盟がそうです。薩摩と長州はどちらも有力な藩ですが犬猿の仲でした。どちらが主導権を握って新しい世の中を作っていくのかということを両藩だけでなく世間の人々も考えていたわけです。協力してことにあたればいいという発想はコロンブスのタマゴみたいなもので、当時の状況でそれを自分で思いつくのはなかなか難しいと思います。あとから明治政府の立場で振り返ってみてはじめて、あれは試練のときだった、といえるのです。
一本道でたどり着くような発想ではなく、理屈や常識をこえたアイデアのことを水平思考といいます。(水平思考として有名なものに「醜い金貸し」の話があります)
試練を乗り越えるには水平思考が必要なのですが、いまがまさに必要なときだ、ということが普通はわかりません。
普通に考えていたらわからないことがあることに気づくために「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とか「かわいい子には旅をさせよ」と昔の人はいいました。
なにかに問題意識を持ったり、そこに課題があると感じたりすることなしには、乗り越えるべき試練があったとしてもそれを発見するのは難しいでしょう。
「試練は神に愛されし者のみに与えられる」ということですが、試練と感じることができるかどうかはその人のセンスによりますし、簡単に妥協してしまわないで自分の意見をとおそうとするだけでそこにひと悶着おこるわけですから、「みんなちがって、みんないい。」というのが水平思考のひとつの結晶であることがわかります。
(2018-09-27 追記: 関連する内容を自分らしく生きるにはゾンビが伝染しないようにするといいに書きました)