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名文を書き写すことの意味と効果

文章がうまくなるための方法として、すごい名文を書き写す、というのがわりとポピュラーですが、ただの作業をして何の意味があるのだろうかとちょっと思っていました。

書き写しは名文パターンを刷り込むトレーニングなのか

カンフー映画とかそれの亜流であるベストキッドとかで見られるプロットに、いまは弱いけどなんとか強くなりたいモチベーションがある主人公が、お師匠さん指導の超効率的なトレーニング方法で強くなって思いを遂げる、というものがあります。

修行して強くなって望みを果たしました、という当たり前の一本道では、勉強して東大に入って希望どおりの就職ができました、というのと同じでなんのストーリーもありません。映画には面白いストーリーが必要で、ストーリーには設定とエピソードが必要です。

カンフー映画の鉄板エピソードパターンにこういうものがあります。

  • 主人公は意味がわからないまま一見無意味そうな修行なり労働なりをとにかくやらされている
  • 自分の成長が感じられなくてやる気を失う
  • ハプニングがあり修行の成果を実感する
  • こころを入れ替えて修行に励む

書き写しもこれと似たような感じではないかとぼんやり思ってました。よくわからないままであっても頑張り続けていればある日急になにかがわかるようになっている? なんとなくの確信でやってみるにはコストが高いように思ってしまいます。

からだはある決まった動作のパターンを繰り返しなぞることで、何かちょっとした動き出しのきっかけがその繰り返したパターンに一致したときに、一連の動作を無意識に最後まで実行してしまうように条件付けすることができます。

スポーツや武道で決まったパターンを繰り返しトレーニングするのはこのためです。まるでバッチ処理的な感じですが、ボクサーがいいパンチをもらったときからしばらくの間気絶したまま試合を続けていてどうやって勝ったのか覚えていない、ということが実際にあります。

駆け出しの役者やミュージシャンが一世一代の大舞台であがりまくってしまい何をどうやったのかまったくおぼえていなかった、というのも同じです。無意識でできるまでに練習を積み重ねているからこそでしょう。

しかし一連の手続きを体に染み込ませるということはありだと思いますが、良い文章を書くための修行として名文を書き写すというのがバッチ処理的なパターンに含まれるかというと、ちょっとそれはないなと思います。

じゃあなぜ文章の書き写しをすすめる人がいるのか。何人もが別々にすすめているということは、それだけの何かが必ずあるということです。そこには何があるのでしょうか。

名文を書き写すときに動員される感覚

たいして考えなくても、いい文を書くために必要なものが筋肉でないことはわかります。必要なのはいい文なのか悪い文なのかを判断できることです。

これは料理人にとっての舌、音楽家にとっての耳と同じです。つまり文章を味わう能力です。

自分だったらこう書いてしまうけどもすごい作家はこう書くんだ、ここでこういう風に書くことでこんな風な素晴らしい効果があるんだ、といったことが、名文を書き写すことで、まるで自分のことのように実感できます。

2019-04-25 追記:文章のリズムが実感できたことを書きました。
#文章 #名文 #リズム #個人的な真実

文章のリズムが体感できる名文サンプル、書き写し中にあばれる君のラップがよぎってわかった共通点と表現の本質

「文章のリズム」とは何か?それはビールでいう「のどごし」と同じです。こういうものは実例で体感するのがいちばんです。『名人伝』はさすがの名文で、自分の体感でばっちりわかりました。しかもラッキーなことに文章のリズムとラップとの共通部分もわかるというオマケ付きです。

名文を書き写すことそのものに意味があるのではなく、ただ漫然と読むよりも書き写すほうが働く感覚の数が多くなり、全身を使ってじっくりその文章を味わえるから書き写しが良い、ということなのです。

書き写すのと同じレベルで文章を味わうことができるのであれば、書き写しではなく丸暗記して空で言えるようになるというようなことでもいいと思います。

昔の日本が諸外国に驚かれた驚異的な教育水準の高さは寺子屋の普及と読書百遍意自ら通ず式の暗唱教育の結果でした。

一回さらっと読んだら終わりという読みかたとは違い、一言一句隅々まで精緻に味わうことになるのがポイントで、必然的に個人的な自分なりの味わいかたになります。

なぜここでその言い回しをする必要があるのか、なぜここに来るのがその言葉であって他の言葉でないのか、どうしてあからさまにそのものズバリを言っていないのに手に取るように感じが伝わってくるのか、つまりこの人のこの文がどうしてこんな風に素晴らしくてすごいのかということを自分なりに考えるということになります。

これを続けていくことで言葉に対する自分なりの感じ方が蓄積されます。言葉に対しての感覚がある程度蓄積されるとその蓄積された感覚を拠り所にして言葉を取捨選択できるようになっていきます。

書き写しているのではなく、名文家と一体になって言葉をつづる体験をしている

何を伝えたいのか、誰に伝えたいのか、それを伝えると未来がどう変わるのか、ということを前提にどんな言葉をどんな順番で伝えるのか選んで行くことが言葉を使うということです。

言葉選びの基準は、その言葉選びに直面しているまさにその瞬間の自分の感覚しかありません。

頼りにできるのは自分だけです。その自分はそのときどきの周囲の状況からうける影響の蓄積によっています。

つまり、インプットがあるからアウトプットがある。そのインプットの質を高めようということ。これが名文を書き写すということで端的に伝えられていることでした。

ものすごく乱暴ですが簡単に言うと、すごい自分になればすごいものが出せる、すごい自分になるにはすごいものを自分のこととして味わうのが手っ取り早いよ、ということでした。

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Author

naoan

始めるのに遅すぎることはない、とすごい人たちがみんな口をそろえていうので、まにうけて人生たのしもうともいます!